新しい季節のその光や気温や匂いの変化は、いつも僕に色々な事を思い出させる。
春になれば、母に引き連れられて桜の咲く小学校の門をくぐった日の暖かさや不安や校庭に満ちあふれる明るさを。高校帰りに自転車で坂を駆け下りた時の気持ち良さを。そして、大学に入り、好きになった子の事を考えていた時の胸の高揚と緊張感を。夏になれば、ランニング姿で野球中継を見ている父に少しだけ飲ませてもらったビールの苦さを。網戸の前に横たわって涼みながら漫画を読む幸せな気分を。早起きした朝の薄暗さと涼しさを。秋になれば、かさかさになった唇の痛みとそこに塗ったメンソレータムの匂いを。放課後の教室の薄暗さを。冬になれば、いとこと早起きした朝に当たったストーブの暖かさを。模試を受けに行った日の手の冷たさと将来への不安な気持ちを。実家を離れて一人暮らしを始める為に荷物をまとめていた日の期待と不安を。
どれも大切な思い出である。僕は懐かしんで、今の僕を思い出すのであろう将来の僕を想像する。
かの三島由紀夫の「金閣寺」に、金閣の屋根の上の鳳凰を描いた次のような一節がある。
「この神秘的な金色の鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。」
僕も飛んでいるのだ。過去と未来を行ったり来たりと。