2006年05月11日

文学作品を聴く

先日、iTMSで「羅生門」を購入した。

なにげなくトップ100アルバムを眺めていたら、その中に「方丈記」を見付けた。「なんでだよ!」と思い、詳細情報を見て、プレビューを聴いてみたのだが、カスタマレビューにも書かれているように、耳から聴く古文は、想像するよりも分かりやすく感じた。ラジオドラマを聴いているようでもあり、おばあちゃんの昔話を聴いているようでもある。嚔(くさみ)から嚔(くしゃみ)へと古語が現代語に変化した過程を考えると分かるように、音を元に変化しているのであるから、古文を耳から聴いて何となくイメージが沸くというのも理解できる。

このような経緯でオーディオブックに興味を持った僕は、何か購入してみようと思い、いくつかの作品のプレビューを聴いた。夏目漱石宮沢賢治、ベストセラーの「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」までもある。どれも思ったより聴きやすい。しかし、初めてのオーディオブックということもあるので、様子見として、なるべく短いもの、できれば1時間位で聴き終わるもので魅力的な作品ということで、芥川龍之介の「羅生門」を選択した。

早速iPod nanoに入れて持ち歩いたところ、朝の通勤時間中に聴き終わった。朝から廃退した世界を味わうことができ、予想通り満足した。オーディオブック、かなり良いんじゃないでしょうか。文学作品は文字を読んで味わうべきだという意見もあるだろうし、僕もそう思うが、音から聴く文学作品にはまた別の良さがある。前述したように、音で聴くと古語への抵抗が少し減るし、偉大な作家が連ねた言葉のリズムをテンポ良く味わうこともできる。

値段は意外と高く、僕の購入した「羅生門」は900円だ。文庫本の「羅生門・鼻」が380円であることを考えるとかなり割高だ。それでも購入した僕のような消費者がいるというのは、なかなか面白いことだと思う。出版業界の人々はこの新たなメディア(オーディオブックと音楽配信の組み合わせ)の可能性を追求して頂きたい。

ところで、このように本を耳で味わうという行為は、別に新しいものでもなんでもない。むしろ古い手法と言えるのではないだろうか。文字が発明されていない時代では、物語や伝承などを口で語り、受け継いでいたのである。その時代の人からすれば、物語は耳から聴くものであり、文字というものから物語を知るなんてことは、とてつもなく新しいことであるはずだ。新しいものが馴染んでしまい過ぎているため、古いものを新しく感じてしまうのだろう。

そのような例は他にもある。それはコンビニの直巻きおむすびだ。コンビニにおむすびが登場したばかりの頃は、海苔がしならないように、ご飯と海苔が接触されていないタイプのものが主流であった。それが慣れ親しんだ頃に、今度は直巻きおむすびが発売された。直巻きおむすびとは、ご飯と海苔が接触されているという付加価値を持った新しいタイプのおむすびだ。しかし、よく考えてみるまでもなく、おむすびのご飯と海苔は、多分、何年も前から接触し続けていたのだ。ご飯と海苔が接触していないおむすびに慣れ親しみ過ぎて、直巻きおぶすびを新しいものと錯覚させられていたのである。

「羅生門」の下人が老婆の着物を剥ぎ取ったように、僕はおにぎりから海苔をはぎ取るから関係ない、などと言いたいのではない。文学作品を耳で聴いても楽しめるというのは、新しく素晴らしい発見であったと言いたいのである。
posted by takada at 22:07 | Comment(3) | TrackBack(2) | 雑記

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